モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

同人の詩

  何万何千という人間がいる中で同じ人間は一人としてない。最近はそういう詭弁に対して厭に噛み付くようになってしまった。自己の存在が有意であるかを気にした為に、余計な疑義を挟まざるを得なくなった。いつか、大人とはそういうものだと割り切ったはずである。しかし、未だ若いか、私は未だ自分が特別な人間であると思い込んでいたいのだった。

 冷静になれば思う。凡百という言葉に対し何をも為せざるを事実を。俺のような人間がこの世に何人いるか。最近はそう問うことが多くなった。細部は違えど、私の内省を取り出せばみなみな変わらない。そういう時に、そういう状況に、そういう境遇に併せて物性を変化させただけで、俺という精神性はこの世に腐るほどある。そういう事実に気付いて、ただ何も思わずとも、少しばかりの物悲しさが湧いて、やるせない。

 まずは行動に起こせ。そうしていくつかのことをやってみたけど、本質的には何も変わっていない。それは、私の本質に何の変化もないために、行動という外的要因を介したとて萌す何かも有り得ないのだ。そうして行動の意義を糾しては、終にやることがなくなった。

俺は多趣味な人間だが、そのどれもが中途半端な気がする。取り得て何か為せるわけでもないし、何も為せないわけでもない。そういう半端さが、見えない現実に期待を抱かせているのかもしれない。却って何も出来ない方が幸せだ。そう思うことが本当に多くなった。創作の二字が恐ろしい。何よりその向こう側が恐ろしい。創作を経て何かに気付くこと。俺という精神性の化体、その本性を垣間見ないことこそが、何万何千という人間の、凡百な平穏というものだろう。何かを諦めているわけではないが、何かに挑戦するわけでも、何かを望んでいるわけでもない。惰性と創作。果たしてどちらが不満でないのか。

 窓越しの遠望に、これだけははっきりと分かっている。