モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

目的

物語は誰のためにも存在しない。その結末に勝者はなく、敗者もまた存在しない。であれば、何らか成果を手にした者が、本当に握っていたものは何だったか。

男にはある目的があった。目的のためにありとあらゆる手を尽くし、走り回った。雨も風も関係なく、馬を駆って回った。旅は希望に満ち、そのために絶望もした。しばらく、男の動く理由は目的のみだった。少なくとも旅の途中まではそうだった。

月日が流れ、馬も死んだ。吉兆を見て舞い上がるのも、裏切りに絶望することも、長い旅路に倦むこともなくなった。もう覚えていないが、この旅程はもっと早く終わるつもりだった。目的が理由なら、そう時間のかかるものではないと思っていたからだ。

男は疲弊していた。だがその疲弊さえも疼痛の内に潜み、誰ぞ知ることはなかった。男は歩いた。硬い皮膚の下に夥しい数の虫が這っているような感覚があった。奇しくも、それらは今の自分と重なった。男が歩けば虫も動く。ひとつの運命のなかに二つの生死があるかのようだった。その外殻に、目的と決意が阻まれており、結局どうにもならない。この疼痛も、自分も宿命でさえ、結局どこへも行けやしない。

やがて男は目的を忘れるところとなった。摩耗か、途絶か、諦めか、男は惰性のみでどうになることだけをやった。

天佑。その秘められし可能性が今や分厚い足裏に踏み締められている。なおさら、天佑という言葉ばかりが脳裏にチラついている。危難、厄災、破滅。それらは既往のものであったからだ。

男が旅を思った頃、その手には何も握られていなかった。その空白には何をも埋められた。

男が旅を省みた頃、その手には何も握られていなかった。その空白を埋められるものは無かった。

たとえ旅が理由になろうとも、もはや慰めにもなりはしない。この道程で得たものは、その旅の終局と共に消えたからだ。

郷里に至り、男は銅貨二枚のパンを食った。未だ消えぬ天佑の二字を一層見つめ直した。認めがたきは、その実感に追いすがるべくしてある己ばかりだった。天佑は強かに達成されようとしていた。その綻びを取り繕う己ばかりだった。

 

この話には教訓がある。

納得は銅貨二枚で買える。

メイド虹夏のチェキは2,600円で買える。
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ただし、その裏では

それは今気にする必要のない、また、これから先も気にすることのないだろうことで、しかし昔は、それについて考えること、それについて考える時間が何よりも大事であると教わり、少なくとも大人になれば、あるいは大人になってようやく、そうした所作が備わるのだろうと思って、半分は志望して、もう半分は拘泥しながら、ある一定の時を過ごしていた。

だがそうした感覚も、日々のうちに雪がれていく。我々が大人になった瞬間を悟ることが出来ないのは、自己というものを定点でしか見ていないからなのかもしれない。無理もない話。自意識は時間と同一だ。価値観は変わる。環境、経験、身の丈を知ることも、老いさえも。かえりみると、生涯の友は生涯同じ俺を見続ける。そんな友を昔ながらの俺が見ている。

我々が影を追わないのは、その必要がないからだ。奇縁により紡がれた運命は、全体贅沢な現実主義に基づいており、お互いに私利の最大化を望み、終わらぬ約定を毎度交わし続けているのだ。これは、ちょっとのことでは揺るがない。想定よりずっと固く、そして貪欲でいい。

考えたことがある。万人がそういうわけにはいかないのはなぜか?世には孤独という言葉がある。園庭に刻み付けられた軋轢は灰被りとなり未だ眠り続けている。それは、言葉の裏打ちにより得心をもつものであるが、一方で、決定的な失敗を経ず、消えてしまった徴たちは、今何をしているのだろう。

漠然と、知己が多いのが大人だと思っていた。大人になれば、自然と結束が手に入るものだと思っていた。それは一定の真実であるものの、俺を納得させるほどの意味はない。だが、そういうものを稼ぐことが、大人であることだと思っているので、その先に何があるか、期待もせず、惰性とやっている。

思えば、俺は建前を得ている。人は見た目だ。見た目じゃないと言うのは純心だが、大人になれば見た目だけで手一杯なのだ。

それがお互いにわかっているので、自分磨きというものが流行る。サロンも、ブランドも、肉体も、資格も、衒学も、必要最小限、透徹した自己であればよい。何を話そうが、何を買い被ろうが、それを聞いてくれる人間は、社会にひとりもいない。

この趣旨は、俺はそこに筋トレの意義を見いだしたということ。近況陳述、初めて会う人間や、久しぶりに会った人間に「いい体してんね」と言われる。これは、かつてのヒョロガリメガネの俺からは想像できないことだ。その差異は純粋に喜ぶとして、この健全な肉体の健全な建前を、初対面で見破れる人間はほぼ居ないということは、無視出来ぬ利益になる。

平気な顔で嘘を吐くには、それなりの練習が必要だが、一度纏ってしまえば以降は何の労力も要らない。

パニーニ

しばらく本を読んでいなかったが、人に借りてようやく最近読むようになった。人に斡旋されるとは情けない限りであるが、かつて手にした背表紙の反りがなんとも懐かしく感じられる。これとともにした時間が甦るようで、開いてしばらくは文字を追うことだけに感動していた。

かつて放したのは自分だった。読書という趣味が、私によって飼い慣らされる前に、自然に帰した。手に余ったわけではなく、その高尚さが、ただ俺の手の中で崩れていき、いかにも独善的に、ある意味では超然的になってきたために、結局それを気持ち悪がって辞めたのである。

 

本を買うことは、本を読むことよりも重要である。本を買う意思が知識への手形となるのだ。そして本を読む理由を考えることは、書上のどの文字列よりも大切なのかもしれない。少なくとも、その趣味を続けたいならば。

かつて本を読む理由に追いすがっていた背が見える。大抵は本屋で、足早に書影を眺めながら、霧に巻かれ、情報の森奥へと誘われつつある自分を。幾度となく、その静かなる興奮に息を詰まらせていた過去を。そうして、手の先にたまたま置かれた本について、純粋な疑いを掛けていたことを。本屋に行けばそれが体験できた。

疑い。それこそが実感だ。言葉、他者、本屋。それらを繋ぐのは純粋な疑いであり、眼差しはたしかにそれらを貫いていた。甘いキャッチコピーを、他者の薦めを跳ね除け、目に映るのは書影と表題ばかり、それ以外の要素はすべて、疑うより前に視界から去っていたのである。元よりそこにあったのは、表題とそれを疑う俺だけ。いや、表題さえもなかったかもしれない。

パニーニをひとつ頼む。私は目を閉じ、鞄の中にある書影を思い出している。おぼつかない暗闇のなか、私の後悔は一層激しいものとなって、まぶたの裏を焦がす。それはやがて強固な現実となり、パニーニを頬張る頃には、もう文字を追えなくなっていた。

宜野湾

 執心の旅である。即ち、何をしても心残りがある。それは、私の命の終わるときと、楽しいことが終わってしまうときの間に、やむにやまれぬ差というものが横たわっているためである。

思うに、憂慮とはこの差から生じるので、万事感情のままに行きたいと思えど、我々の寿命というものは、そう易々とコントロールできない。できてはならない。

 然して、こういう瞬間こそ、我が絶望が心の底から湧きいでて、もはや覆い隠せないほど巨大な渦となる。巨大な渦は、私の情緒の悉くを飲み込み、ありとあらゆる感情の堰を破綻させ、吐き流させる。この瞬間ばかりは、私は幼児に戻った頃のように、甘く、弱く、脆く、そして儚いまでの感情の相手をする他ない。そして大抵は手を拱ねくだけで、進化の過程を見過ごしてしまうのだ。

ああヨルシカのライブツアーが終わった。そればかり考えている。そればかり考える能以外を失った機械のように、ただその事実のうち、失ったことばかりを見つめている。これは、執心の旅である。即ち、何をしても心を果たすことはできない。

当の果て、分かりきったことではなかっただろうか。これが終わることなど、この先、明瞭に楽しいと思える瞬間が、きっと訪れないだろうことを。畢竟、それが分かった先の絶望の暗さなどというのは、もはや舌後に落としておくべきことなのではないだろうか。

それでも、人は悲しみの程度を予想することはできない。予想したとて、自分がどれだけ悲しむかなどというのは、往々にして想像を越えてくるものだろう。私に至っては、そこにかねての想像を超えようという挑戦心さえ垣間見えるのだから。

つくづく思うことがある。悲しみは無限に増幅するのだろう。その無限に増幅するなかで必ず閾値が存在し、涙は横溢し、悲しみは吐き出される。その悲しみが、心中にショックを与えると知っておきながら、然してそうしてしまうのは、ほとんど破滅願望に近い。そう思えば、悲しみに対する説教性が有する詩的さは無視すべきでない。だから文学が栄えた。

雄弁である。詩的である。幾夜幾夜と悲しみを超えてきた人類が、改めてそれに向き合っている瞬間のかけがえの無さを知っている。これは、究極的には詭弁でしかない。詩的とか、雄弁とか、虚飾に塗れた諺を好む人間の、最後の過ちにほかならない。

私は、この悲しみを、この手に余る悲しみについて、どうすることも出来ないと思う。それは定めし運命によって、定めし思慮によって、俺はどうすることも出来ないし、どうもしないと決めた。

決めたんだ。悲しいということが事実であるうちに、それを固着させねばならない。誰とも話すことはしない。俺も俺がどうなろうと知ったことではない。奔放だ。悲しみを放し飼いにすることが、その不始末がさらなる悲しみを呼ぶことなどありはしないのだから。

執心の旅である。即ち心を残すことになる。

ヨルシカの絶景は、この120海里を超えることはできない。そして俺も、無謬では帰れないだろう。

サルッツォ

昨晩、ラップランドがファミリーに拉致監禁されボコられる様を無限に想像して無限にシコっていたのであるが、いつの間にか寝ていたらしい。酒を飲んでもいないのに、その前後の記憶が抹消されていた。朝五時。オレはタンスに直すのを先送りにしていた服の上で寝ていた。このままでは素敵な服にシワが付くじゃないかと思って、いや、あるいはカーテンの間から射す弱い光に誘われたかで、枕のある位置に戻って行った。立ち上がったのだろうか?未だ平行は取り戻されておらず、体裁も判ぜぬ意識の薄闇で、俺は誰かの声を聞いた。

「部屋に誰かいるぞ」

声の元を辿ると、そこにはスマホがあった。最低照度に浮かぶその顔は、やけに端正なのにタラチオの声をしていた。

「俺は加賀美ハヤトの声で目覚めたのかもしれない」

ディスプレイを平撫すると忽ち静けさが取り戻され、俺は再び幽玄に入った。そのあと見た夢のことは覚えていない。

全裸で筋トレしたいよ

全裸で筋トレしたい。筋肉の動きを確認するとかでなく、震えるちんこがみてえからだ。

俺は震えるちんこをみながら、なにかに耐えていることを実感するんだろうな。普段何にも関与しないこいつが、なにかに倦んだように震え出すんだ。きもいね。でも頑張ってんなって元気を貰えんだよ。こんなこいつでも頑張れるんならてめえも頑張れんだろつって、明日の勇気に繋げていくわけだ。そうすると、いつもより力が出てよ、俺の体はでっかくなるわけ。あ?わかんねえの?

世の中の半分の人間にはちんこがついてねえ。ちんこがついてねえから悪いとかそんなわけねえの。じゃあ付いてねえから偉いとかそんなわけでもねえ。俺にちんこがついてんのはたまたまだろ。たまたまがついてんのもたまたまなんで、俺にちんこがついてなくても結局俺はおっぱいをみるんだ。でもおっぱいは2個あるからどっちをみればいいかわかんねえ。真ん中にもねえから難しい。特に筋トレ中はIQが下がるから尚更わかんねえ。

思うことがある。ちんこはきもいけど、おっぱいはきもくないすよね。なんでなん?きもくねえものがぶるぶる震え出したところでなんにもないんじゃねーの?

でもきもくないといけないとかいうのは、すこし論点がおかしい。

独り善がりだよ。全部。

何が良くて何が悪いかを決めるのは、自分。そんな傲慢がこの世に溢れている。他人を否定する理由を考えたことがあるだろうか。結局、自分が情けなさすぎてどうしようもないから、他人を、他人の思考を、社会の価値観を、善意を否定するしかないわけだ。

例えば、誰かが既に成功を納めているとして、それは社会的な価値観のもとで成功していて、そんなやつとはまったく対照的なお前がいるとしよう。

社会的に見れば、お前には何の価値もないけど、そうなったとき、お前はまず、その評価方法を疑うか、あるいは別の評価基準を持ち出すんじゃないか?

価値ってのは一面的じゃないよね

俺には何何があるからなあ

それが自分にとって何になんだよ。周りの評価を下げることは相対的な手法であって、お前自身、俯瞰では何にも変わってない。

傲慢なのに強欲じゃない。なんで?

世の中いちばんすげーのは、何もかも持ってることだろ。金も、女も、欲も、地位も、名誉も、ちんちんも、おっぱいも何もかも持ってるのがいちばん偉くていちばん羨ましいだろ。

こんなことを言うと夢を見すぎだとか言う冷めたカスがいるけど、夢を見ねえやつが何になれんだよ。教えてくれよ。お前が今後どんな人間になっていくのか。お前はお前のまんま、どうしようもねークソのまんま。そんな未来が見え見えのお前に何を期待したらいいんだよ。教えてくれよ。そんな人間に飽きねえ方法をよ。

全部ゲットしようぜ。なあおい。こんなものには価値がないよねとか、そんなこと考える暇があんなら全部ゲットしようぜ。自分が大事にしてるもんも、社会が大事だと思ってるもんも全部ゲットすれば最高だろ。

そのために何を犠牲にしなければいけないかなんて、やる前から考えてんの?教えてやるよ。金と時間だよ。金と時間とてめえの価値観だよ。そういう大事なもんを全部失って漸く手に入んだよ。てめえがめちゃめちゃ大事にしてるもんを使うからそこに価値が生まれんだろ。大事にして大事にして、大事にして大事にして大事にして大事にして大事にして、しまってしまってしまってしまってしまってしまって仕舞ったまんま死んでああーーーーーよかったーーーーーーってバカだろ。価値ってそんなことじゃないだろ。金も時間も、価値観も浪費しないと。使いまくって霧散してしこたま後悔してんだよ。でも公共性のないものに価値なんかないだろ。時間も、金も、思考も、それ自体は平等で、公共性があるからそこに価値が認められてんだろ。そういう価値を交換して世のなかは巡っています。その中で、誰かに自分の価値観が認められたりとかするわけで、捨て身で行かないと一生無価値のまんまっすよ。

バカがよ!!!!!!!!

何で俺は筋トレをしてんだろうな。イライラするぜ

本当は女に産まれりゃ筋トレなんかしなくていいんだよ。わかんねえけどよ。この体質のまんまだったら俺は無敵の女になってたな。でも結局、2022年には筋トレをするんだよ。筋トレをするように、俺が運命を変えちまうので

ヨルシカのことなんていっこも書いてないよ

 一人旅だった。久しぶりだった。かつて当然のように征っていた旅路が、今では遠い情景のように思える。ただ一人であるという、それだけなのに。

 人生は一様ではない。そう知りながら、自分の人生は一様であると思っている。個人が考えを変えることなどありはしないと思っていたからだ。

 人は人と出会い、出会いの中で変容していく。そうした簡単な事実について、ついこの間知ったかのような親近感がある。単に生き方を変えただけではない。俺が俺のことを内省するようになっただけでもない。その中で、大切にしたいと思える関係に出会ったという、単にそれだけでもない。

 漠然と、人生の時期なのだと思っている。具体的ではないが、ただそういう時期に至ったということ。変節が来たということ。自分の価値観が任期満了を迎えたということなのである。 

 自分が変わることについて、ただ簡単には認めたくない自分がいて、そういう意固地さが、簡単な事実を遠ざけつつあることを、俺は知っている。それを知りながら、あくまでこうした現象を客観視することは、自分にとって、何か、意味があるような気がしないでもない。

 端的に言えば、これは初めてすることにおける、特有のためらいなのである。ただそれをそれと言い切るには時間が要されるという、それだけ、それだけのことであって、結局、こたえは既に出ているのかもしれないのであった。

 一人旅というのは、誰にとっての旅でもない。もちろん自分のためでさえない。俺は、自分のためにやることで、もっと効率的に有意義に自分を満たせることを知っている。そして、それを差し置いてやる一人旅というものの意味を、知りはしない。

 よく知りはしないけれど、やってしまったんだからしょうがないということが、往々にしてある。振り返れば、後悔一歩手前の事柄が、轍の横に散らばっている。でも、一輪の花が咲いていることもある。そして、それらの落し物も、一輪の花についても、それのためにわざわざ立ち止まったりはしない。

 人生は止まらない。止めようがない。己の意思を止めてはならない。この世に生まれて、何かが楽しいと感じたときから、ずっとそう思っている。感情を昂らせるためにやったことなら、その是非は、誰にも問われるべきではない。

 一人旅は楽しかった。それは変わらず、かつての俺に定着した、一定の趣味であった。それは良かった。変わらなかったことが良かったのではなく、楽しめたことが良かった。

 もう兵庫に帰るが、瞼を閉じればこの旅情が浮かぶ。網膜はじりじりと熱い。涙が出ているか。目を開けてしまえば零れてしまうか。ただの眠気にしては冗長な、旅のエピローグである。