モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

恒久的平和

 恒久的平和を保持するために必要とされる争い、恒久的かつ微弱な争いがある。それが一定の対立の間に生じることは言うまでもない。

 犬と猫。海と山。夏冬。きのこ、たけのこ。これらの間に人間はほとんど制約された多様性を見つけ微弱な意思という意味で微弱な闘争を成す。

 両者は真のところで差異はなく、それ故に対立は常に均衡あいこを繰り続けるじゃんけんのようなもので互いが互いをのし決着が付くなどということは決してない。そして互いに勝利は求めておらずそれどころか闘争の只中にあることこそに意味があらんという体裁である。ゆえに彼らは平等たらんと暗黙に契り、時に一方が劣後するときは一方が補正するよう仕向ける。ここ数年きのこ派の劣後が著しいのに未だ喧々諤々をやれているのはこのためである。

 両者は平等でなくてはならない。与える損害も受ける損害も鏡写しでなくてはならないのだが、その唯一にして鉄の法則さえ守らない賊徒が存在する。それが二つ折り財布の連中である。

 

 この話は結局二つ折り財布に仕舞われていた札が折れて萎びて長財布に入りにくいことに対する文句でしかない。貨幣といえ皆人等しくあるべし天賦の共有さえままならない賊徒ではないか。その損害が平等であればよいのに連中は我らが丁寧に伸ばし整頓した札を懐中に含むのに何の苦労があろうというのだ。それなのに何故曲げる。なぜ曲げたまま仕舞う必要があるのか。なぜ曲げる必要があるのか。札はなぜ曲げられ萎ばなければならない。これは札にとっても不愉快千万でありレジ打ちの人間にしても不愉快千万でありむろんわれわれにとっても不愉快千万の悪行に他ならない。

 二つ折り財布遣いは小銭だけを使うが良いと甚だ思われた。

一応の朝

 一応の朝、愛とは、疲弊とは

 なんだという四方山話を前に何も言えないでいるのは、ただ、ただ──なぜ。

 午前九時の改札を行けば終着駅は烏丸だった。息の数だけ疲弊が漏れる。愛にしては驕慢な香水を振る。

「烏と云う字は」 

 一応の朝、午後十九時の改札を行けど終着は定まらぬ。

 改札が告げる「残額 1919 円」

 機械のくせに喘いでんじゃねえよ

 なんだと言う四方山話

 私はすこし良い心持ちだった

書店と心的距離

 未だ買っていない本と、買って読んでいない本には、一切の、事実上の差異がない。書店は本の保存場所であり、隔地にある本棚であった。本棚は遠かれど、その内容たる書籍との距離に変化はない。読みたい本は本棚にある。読まない本もまた本棚にある。本棚には本があり、手を伸ばせばいつでも読むことができる。

非公開の書状

お疲れ様です。藤田です。
先日、3月29日(月)を持ちまして業務を全うさせて頂きました。
皆様今までありがとうございました。
お身体に気を付けつつ、健やかな毎日をお送りください。
陰ながら、皆様の益々のご活躍をお祈り申し上げます。
ありがとうございました。

以降は小話にでもお付き合い下さい。


 振り返ってみると長いのか短いのか、三年という月日は、人生に比べると短小で、二十代の春に比べるとやや長い気がする。
 自分にとっての青春がアルバイトであったというのは、少し納得のいかないものではあるけれど、ただ厳然としてそうあった以上、自らの青春をバイトに賭した事実は簡単に否定できるものではない。現に、この胸中に満ちた感情は、あの遠き卒業に見えた哀切と、殆ど同じ色を示している。
 しかし、「哀しいか」と問われても、「哀しい」と応えることはなく、哀切と表現しておきながらも、私自身はそれが何色を示しているのかは、いまだ判然としない。自らに悲哀を想起させる模様なのか、今は自己の心象に対し、今朝の薄暮を包んだ霧のような遮蔽を感じる。
 それが、きっと「実感のなさ」と云われるものの正体なのだろう。靄の中で模様は分からず、内容の捨象された影が黙するばかりで、私はただ、そうした曖昧さには憮然とする他なかった。この実感の欠如は、朝霧に包まれたために起こった──或いは朝霧などなくとも、私は無感動のままに、感傷を起こす機会を失したのだろうか。──その一世一代という瞬間に、最も相応しい感情で相対するには何が必要だったのだろうか。

 三月、有給休暇を消費するため、勤務に出ない日が続いた。そうした手前、ずっと考えていたことがある。班の行く末、そして私自身の往く末。無体な話だと今になって思う。それを案じたとて、その場に自分がいないのだから何の意味もない。過去を顧みることは余計な感傷以外に何も生まない。──やがて、ある未練の萌芽となりうる。──しかし、それでいて尚、この時、私の欲したものは余計な感傷だった。──余計と言える感傷、規定値を僅かに超える──感傷…を形成するには、そういった、自己を終わりへと誘う、一定の思索が必要だった。一世一代と云い、過ぎた感傷をもって終了に望むこれは、もはや殆ど死の仮想だった。
 その一環として、ひとつの決め事を[▅▅]班のオタクとした。
「31日に一緒に[▅]線入ろうや。」
「ああいいね、最期やから[▅▅▅]でパン食いながらやるか。最期やし赦されるやろ」
 しかし、奴は31日は用事があるから無理ということで、先週の26日(金)に退職した。話が違った。一環とは言うものの、私の計画とはそれが全てであり、また唯一でもあった。その機さえ逃した私は、自己の終了に対する確固とした様式を失した末に、実感のない最期を迎えた。この罪の所在の一切を、今や非実体となった友人に預けてよいのなら、以後数月という未練のために、奴の為した所を憎悪するものであった。
 もう少し友人の話をする。
 彼が退職した当日、我々は会って話をした。退職した感想を訊くと、「言うほど悲しくはない」と言った。とりわけ感受性の豊かな君さえそういうのなら、きっと私もまた何も持たないのだろうと思われた。現に悲しくはない。ただそう表明する心根に「淋しくないか」と問うても、易い首肯は促せなかった。依然、体内にわだかまる息がある。息は、硬く震える五体を彷徨い、出口を見つけられないでいた。或いは、出ていくことさえ、望んでいないかのような逡巡だった。淋しさと云うのは、わが須らく愛する同僚みなとの離別を憂うわけではなく、事実上不可避といえば却って事務的とさえ言える、そういった少量の寂寥に対して五体を阿るほど衰弱してはいない。何が、何が、記憶の可変性が、不安という不安を思慮の端々に挟み込むのだから、私は、かつて綴じた幾つかの記憶と、その恒久性、あまつさえ、その存在をも信じられないでいるのだ。忘れることもできる。だが、忘れないでいた幾つかの光景、そうした畢生を司る断片を、悠久の過りし以後の人生の一地点においていつか手放すかもしれないことが何より恐ろしく、また何より淋しいのであった。
コンコースの雑踏、[▅]号の窮屈さ、危機薫る[▅]号、人の降り頻る[▅▅]号、[▅▅]駅8:15以降の静けさ、喧騒の[▅▅▅]駅、ドアの感触、板の重み、寒さも暑さも、もう二度と体験することはない。手放してしまえばもはや遠ざかる一方の体験。今まで凡庸に感じていた日常の、ありとあらゆる瑣末な光景の、その有難さに気付く瞬間、私の胸中にふと淋しさが芽を生やす。これは、稀有な職種に就いたものの末路に他ならない。掌中から零れ落ち、所有から離れ、虚無に持ち替えた束の間は、この上ない虚脱感を生じ得る空隙であり、ある実存の喪失という意味で、至上の淋しさなのだろうと思われた。私は、この代替不可の満たされざる郷愁を、この後もずっと感じながら生きていく、その心持ちばかりは、哀切と呼ぶに相応しい。

 [▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅▅]
 私にとって、幸福とは特別を指すものではなく、凡庸こそが最も本質的な幸福だった。そのことに気付けたアルバイターとしての畢生は、きっと価値あるものに違いない。
 親の名と共に心臓に刻むなら、きっとこういったものが好ましい。──2021,03,29

俺が「乙女過ぎて好き」と評した女達

 はーー、こいつら乙女過ぎンぜ!

 ちょっと待てよ?「乙女過ぎる」ってどういうことだ?そうやって揶揄した女達に共通項など見当たらないのではないか?

・エリス『無職転生』──素直じゃなさ

・和田『フードコートでまた明日』──排外的な一途さ

北白川たまこたまこまーけっと』──激情に対する弱さ

何にも共通項がない。こじつけることさえ出来なければこの記事は終わりだが?

はぁ、最近はいつもこうだ。何かボーっとしていると霹靂が駆け抜けて記事を起こそうとするのであるが、よくよく考えてみるとごく単純な認識の修正でしかない。意気揚々と余勢を借りたものの、その実体の薄弱さに殆ど呆気に取られる。太山鳴動とはこのことか。

これはつまり、あまりに意味の薄氷とした平生を送っているために、ちょっとばかしの微動さえも常態を揺るがす一手になるということだ。そのために、俺は余人のつまらんと言う映画に対し良い評価を与え、ついぞその面白さを説明することが敵わないのである。

「あの映画面白かったよねー」

「そうなの?どういう点が面白かった?」

「俺がめっちゃつまらん人間だから相対的に何でも面白く見える」

記事のネタは幾つもあるような気がする。だがそのどれも内容を補充できる程意義に満ちてはいない。先の凡庸な気付きであるとか、キショい妄想とか、色々ありはするが抽象的で煩雑である。そうして一寸、別の表出方法を考えてみた。それが昼に描いた絵である。

あれは、単なる練習であった。五体の関係がよく分からなかったため、様々な構図を貌ったうちのひとつである。元々はデビルマン走法を描こうとしていた。よく見ると、上体が左肩を上に捻れており、原版では上体の上に左腕が位置していた。完成版では、上体を左肩方向に捻ったにも拘らず左腕が下に降りており、ちぐはぐの状態になっているので、作画が狂っているといえる。狂った理由は、先の通り霹靂が過ぎったためであった。

それが、ウマ娘四足の方が速い説である。当時は、アニメを見つつ絵を描きながらウマ娘をやっていたので、そういう不可思議と邂逅した。ウマ娘は二足で走っているが、あれは競技的なレギュレーションでしかなく、野生では四足の方が速いという説。

突拍子もなく、予後もクソもない妄想である。ただそれは、きっと文章で表出したときの限界であって、絵で表出すれば多少は見栄えのするものになるだろう。そうして俺は久しぶりに筆を執ったのだった。

結果としてどうか。

うーーーん、文章で読むよりかはリアリティがあっていいんじゃない?

そうだね!

そんな気がする。あのあとなんか自分が描いた絵を見るのが嫌でTwitterを開けなくなった。俺ってまだそういう羞恥心みたいなの残ってたんだな。デジタルのときはあんまり感じなかったけど、アナログだと如実にしんどいね。何でだろうね。

これもまた気付きなのであった。人生とは気付きの連続である。ただその中で、何が優れ、何が重宝されて然るべきか。霹靂が過ぎったというだけで、さも大儀そうに退屈を喧伝してはならない。ただ、たとえ玉石混交であったとしても、それは気付きである以上例外はなく、簡単に見棄てられてはならない。退屈であれば、その退屈を取り払いさえすれば石も玉となるのだ。俺はその可能性を模索していたい。

和田へ

ありがとう

健康診断でショボイ尿を出すな

 健康診断でショボイ尿を出してしまったので、明日新しいの持ってこいと言われた。尿のバタコさんである。尿パンマーン!新しい尿よ!今度の尿は違うぜ、なぜなら出来たて朝イチの尿だからな!パンと尿は出来たてが一番うめーんだよ!!!!

死にやがれ!!!!!