モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

自家中毒

 7時半。依然黙する頭蓋に囁きかける、YouTubeの自動再生。雨音の敷る六畳間に音はただ二つばかりとなった。自然と人工、両者は実存を云うように騒いだ。音の起床。生命の興り。沈黙は破られ、カセットは挿される。食器を寄せる。戸棚に挙げる。──”チェーンソーマンは鬼滅よりおもろい”──やかましいわハゲが。自分を納得させる為に引き合いに出される『鬼滅の刃』。そういう用い方は悪習という他ない。原初、事物に優劣はなく、評価もなく、ただ実体のみが存在する。なら、なぜ優劣というものが存在するか、評価を付けねばならないか。何かを納得させるため、自己の感想に具体性を補填したいがため…愚劣なことだYouTubeよ。人工の化身よ。具体性の虜囚よ。お前が何かを語るとき、必ず何かを犠牲にしなければならないというのなら、お前はこの乾いた脳のようにただ沈黙していればいい。吐き溜めが、二度と口を開くな。

 何かと言うと、結局一人で○○ができるというのは、単独でその行為の意味を消化できるか否かとだと思う。あるいは、あらゆる行動に纏わり付く必然の有意性をどこまで放棄できるかという点でもある。一人で映画を見に行くにしても、その感想を単独で処理できないなら行くべきではない。抱いた感想の正当性に不安を見出すなら行くべきではない。そして正当性を欲したために、確認や阻却のために他人を擁するような人間が、一人で映画を見に行ってはならない。

 感情には毒性がある。溜まれば排出すればいいが、劇毒でもなければ消化も効く。消化が効けば毒でさえない。そういうものを常頃から吐露してしまう人間は、何事も単独で行うべきではない。単独で行った末に、自家中毒に病まれるような人間に、そういうのは向かない。

 

 『チェーンソーマン』も『鬼滅の刃』もその面白さに首肯していればそれで充分なのだ。