モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

毒花を抱く女について

どういう類の書籍なのかは、読み終えた今でも分かっていないが、現在する読後感を既成概念に当て嵌めれば、その分類はおよそサスペンスに近しい。まず、見えぬ謎があり、猜疑心と共に謎が膨らみ、最後には見えるようになるというのは、サスペンスの常套手段にも思える。そういう意味で、私は本著をサスペンスと題する。

 「長いサスペンスだった」というのは、普段よりサスペンスを読み慣れぬものの稚拙な感想かもしれない。サスペンスとはすべからく長い。なぜなら、謎を醸成するための期間を担保しなくてはならないためだ。長きに失すれば謎は謎として機能せず、物語自体が簡素に付される。そうなっては、謎としての意味も、サスペンスとしての意義も存在しない。そのために、サスペンスは長い。

 私がこれを表現する時に用いたのが「踊り場」である。この階段は、踊り場が多い。上るにせよ下るにせよ踊り場が多く、上下の展開は頻度に乏しい。物語としては、同一のスウェーデンで、同一の“パーフェクト・マッチ”で、同一の謎が、同質のまま終演を迎える。それは、或いは、階段でさえないのかもしれない。緩い勾配か、もっと言えば平坦な道で、主人公は歩いてさえおらず、ただ徐々に周囲が明るくなってゆくというだけの物語なのかもしれない。そうして世界が完全に光を取り戻した時、主人公は初めて歩き出すのだった。きっとそのはずだった。

長いことにかんしては、ただそう表現する他ないある種の迫力があった。漫然と茫漠としていたわけではなく、日々は謎と緊張に包まれ、サラはすべてを猜疑しなくてはならなかった。周囲の人間、不可解な事象或いは、それらを認識する自己の、何れに誤謬があるのか、それが徹底して分からず、ただ何か不可解が生じていることだけは判然とし、女は依然毒花を抱く。

 毒花とは何だろうか。作品への理解度を抽象するなら、私は毒花を、彼女を形成するに至るすべての歴史だと思う。それはエレブロであり、ストックホルムであり、スウェーデンの政体乃至は外交官であり、施策乃至は北欧人権主義思想その内外視の差異であった。或いは父の正義感であって、より具体的には父の遺稿─スクラップ─なのかもしれない。親指姫…

 技巧的には、主人公をPTSDに置くことで、読者さえも不信感に陥れることが叶う点に感銘を受けた。何をも、信用するべからず。そういう意味で没入感があり、写実的であった。私の生けるこの時空にも、その遥か果てなるスウェーデンに、そうした不可思議の錯乱に至った世界があるかの如く思われ、本を閉じたのちもサラの精神状態を案じ続けた。案じるとは疑うことであって、私は結局、あの空間が、患者が稀に思いついた、ただの虚構に過ぎなかったのだという疑心を捨て切れないでいる。

 『毒花を抱く女』は啓発的なサスペンスだった。謎はイデオロギーそのものであり、ある意味では、自然発生的な怪奇なのであった。