モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

けやきの木は

選ぶ側に立つことは選ばれる側に立つための前提を、自己研鑽の主産物は自己愛で、好意はあくまで副産物だという認識を。 偽り、弄して、暴かれた本性とは無縁の自己愛の希求が、余人の感性にかかることとなり、またかからざることとなる織り合いが、ついに人と人との隔てに残った。人と人は違う。その程度を測ること。それが恋愛の心実なのかもしれないと思った。

午後11時から12時は有意義と無意義の狭間を揺蕩っている。日中の悉くには飽いたし、寝るのも少し億劫だというころに、梁の交叉点をぼんやりと眺めながら、ある日々の実存を考えていた。クリスマスの明かりが街に降る。冬は、寒い、冬は、鍋が美味い、冬は、寂しい。その一時の情緒と付き添い、年月は過ぎていったのだ。それは冬の真実を追い求めたいための空想で、このどうしようもない空虚さから逃れるための方便である。その言葉たちは嘘ではなかったのだ。冬に嘘をつくことはできないと、わたしは常々思っているのだった。

あの日、あの寂しさに狂いそうになった日に思ったことは紛れもない真実だった。一人の夜。このどうしようもない寂しさから逃れたいために、わたしは彼女を欲していたのだった。少なくともその時点で、心の底から快癒を願っていた。

その真実にようやく至ろうという頃が近い。しかし実際はどうだ。わたしは結局形ばかりを欲していなかったのだ。実態のない、意味の乏しいものなら、わたしにはいらないのだった。心には、嘘をつく。この日々に意味があるような感じがして、温もりが何様包まれたような。そういう欺罔にあった。これを欺罔とする狭心にも、それに納得をつけたわたしの自尊心も、結局すべては冬に透かされ、むしろ意味のなさが際立ってくる。それがなんとも気持ちの悪い寝覚めを思わせる。こんな種明かしはむしろ望んでいやしない。

クリスマスの明かりが町に降る。枯れ篠の隙間から落ち葉が覗く。北東に向け呼気は白んでいて、わたしは彼女ができそうで、でもわたしはまだ、そういったものに寂寥を覚えている。夕方になれば心が締め付けられる。その斜陽の差す先にわたしが見える。寂しがりだろうか。その擬似的な関わりがあっても、わたしは冬に嘘は吐けずにいて、若く有望であったかつての願いも、結局本心ではなかったのだと。現実を、というより受け入れ難い感情を避け、わたしは今節もまた、冬を寂しがっていたいだけなのだった。