モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

ストレス性行動欲求

 この世に意味のある停滞はない。状況が変わらないというのは、それだけで罪なのだ。それゆえに、私は酷く後悔している。その過去は、熟慮という病に侵され、外出することさえままならなかった。結果として主体性を失い、自らの欲求に対して懐疑的になった。何をするにしても、また何を止むにしても、関わらない方がマシという結論を出だすようになり、熟慮という病理は無生産なばかりただ青年の寿命を奪ったのである。

そういう癖がまだ抜けず、あるゆる行動を前に思考し、結果として無価値なのではないかと判断し、何も起こさないことが数月続く。このプロセスにおいてもっとも占有的なタームは即ち熟慮の段階である。半月の熟慮は一年の停滞を生む。熟慮の段階に結論はない。結論とは行動に他ならないためである。そうしてふと蘇った熟慮に対して、まったく同じステータスで、まったく同じ視座で語るのであるから、やはり熟慮の域を出ないのである。そうするうちに、内外には種々の熟慮が蓄積され、ついに私は熟慮するだけの月を跨ぐのだった。

ただその合間で、私は自らを哀れんでいるのかもしれない。病巣と化した脳髄を見て哀れんだために、時折後悔としての感情が表出するのかもしれない。皮肉な話だ。そうして熟慮の外側にある表出という行為こそは、ただ幾月幾年待ち望んだ行動に他ならないのである。悪態や自棄、確かに不満を満たしたいがための欲求だろう。

今はただ、私が体内から唯一発される行動が、それ以外をおいて他にないことを憂うばかりだ。