モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

ツイッターって?

ツイッターって?」


・・・


と日常の隙に考えると案外暇を潰せたりする。
答えや意味が定められていないものは何時だって恰好の暇潰しになる。むかし、無限プチプチとかが流行ったのも事例の一に挙げられよう。また、そういうものができる前でも、梱包材を潰す無意味は存在していた。無限プチプチはそれに着想を得たものだから当然だ。
こうした、ある暇潰しを無限化するという習性を演繹するならば、ツイッターの在り方もそういった潮流の中にあるものかもしれない。然らば、Twitterとの名も理解できよう。
言うまでもなく、呟きは消える。誰かが言った「お腹が空いた」とか「俺はダメだ」とか「寝よう」などの小言を誰かが覚えていたりはしない。本人であれ、昨日その時点において一瞬でもそうした思考を持ったことなど覚えていないだろう。何故なら、それは「呟き」に過ぎないからだ。呟きは常に目的もないし意味もない。そんなものを覚えている暇など当時の人間にもなかったのだ。意義なきものの自然消滅は条理だと言わんばかりに、人間は存在を空費する。
だが、いつの日か「呟き」は「ツイート」になった。呼気のように空間を漂ってはやがて消えゆくものが、いつしか物体として壁や天井、或いは手の端末、つまり目に付く場所にへばりつくようになった。
言うまでもなく、「ツイート」は消えない。消そうと思わない限り永遠に残留する。誰かが言った「うんこ」をきっと誰かは覚えているし、覚えていなくてもデータとなった「うんこ」を見て思い出すことができる。文字列としてのそれだけでなく、連想されるすべての情景がデータとして保存されている。「呟き」は「ツイート」となり、「記憶」という有限性を失いつつ「記録」として無限化する。そんな無駄や無意味の拡幅こそが人間の深化であるとでも言いたげな表情で、人間は画面に目を落とす。ホモ・ルーデンスの発生はここにある。

ツイッターってのは「無限呟き」だ。
私がそう言ったところ、聡い人間ならこう反駁する。
おいおい、無限の意味がまるで違うだろう

そうだ、無限に暇を潰すことと、潰れた暇の痕跡が無限に残ることは全くの別。呟くだけなら無限にできるしすればいい。しかし、考えて欲しい。本当にそれらは別だろうか?
無限プチプチで遊ぶ人間がどう思っているか。
彼らはきっと「無限に暇を潰したい」と思っている。
無限にある暇を何が有意義なものに変えたい。何より、暇というリソースを空費したくはない。
かたや、ツイートを連投する人間は「暇の痕跡が無限に残る」ことを意図せずとも知るだろう。むしろ痕跡を残すことを目的にツイートをする人間もいるくらいだ。なんのために?自らが過去に生み出していた暇を見やる目に何を写しているのだろうか。もし、それが羨望だったとしたら、それはなんとも巧妙なことである。
用事がある時はツイートをしない。何故ならツイートは暇潰しであるから。しかし、癖が習慣かTwitterは見る。束の間でも誰かの暇を目撃し、或いは自ら過去の暇を眺めている。でも今は暇でないからツイートできない。それに得も言えぬ苦しさを覚える人間は確かにいる。
休日のために生きているような気がしないだろうか。それは確かなことで、人間は休日しか人生を謳歌出来なくなった。人生は歴史に置き換えられる。一挙手一投足が刻まれるのでなく、その人柄を顕すイベントが要所に刻まれる。やや長いそれ閲覧するならそう、縦のスクロールは大層見やすかろう。
人間は無限に暇を潰すうちに気付いてしまった。暇は無限に潰せるが、暇が無限には存在しないことを。それは、人間が物体ではなく生命体として在ることを望んだために得た有限性に基づくもので、人間は自ら有限の道を選んでおきながら、暇潰しの道具を無限化するという倒錯を起こしてしまった。
ツイートは暇潰し、潰す暇は確かなものだ。暇に焦がれるあまり、用事中にもツイートしてしまう人間を見たことがないとは言わせない。彼らほど虚しい人間はいないのだ。用事より暇を求める人間など、日常がすっかり用事に侵食されているのが明らかではないか。だから生命の希薄性を補うためにツイートを着飾り、連投する。華々しく過去生きていたことを未来の自分に証明するために、今を乗り越えれば、また戻れると確信するために、彼らは必死に暇を潰す。潰し尽くす。尽きてしまう。ああ──

「無限に暇を潰したい」

暇が無限にあってほしいという願いがあらゆるツイートに込められている。Twitterは、例うなら七夕の笹、我々が信じていないと言いながら願いを託さずにはいられない、何か神妙なもの。暇が大量に集まって、あたかも無限にあるように見える。だが果てしなく遠い無限を見つめる、高いだけの塔。神に届かないことを知るヒマラヤの峠。生命体の限界。


・・・


ツイッターはただの暇潰しだよ」
友人の熱心で怜悧な分析に対しては、やや熱の失せた返答だったかもしれない。