許すなら許して、そうでないなら裁いてくださいよ。その中にある状態が最も苦しいんだから。👈わかる
爬虫類好きな女ってちんこ好きそうじゃね?みたいな会話が聞こえてきたのでたまらず殺した。爬虫類を。そしてそんな会話をしている人間も殺した。そして実はそんな会話をしてるザコもそういう女を尊ぶ俺も現実には存在しないのに、何故かそう思える俺のことを思っていた。昼休み。
昼休み。昼休みもすべきことがある時点でタスクっすよねェ〜と厭世のナヨい男の思考をして、共感も憐れみも、誰かとこの苦痛を共有したい願望も、そんなことしても何にもならない事実も、じゃあどうすりゃいいんすかと言い続けながら「これって今開き直っててキモイな」と思える冷静さも、何故かひとつの頭の中にあって、それらが互いに存在を認めあって総合的なアジテーションを拠出している。何が嫌か、その明確な部分は何もかもだった。それはとりわけ不明瞭な部分でもあった。
不連の倫理があって、時代があって、平等は常に等価たるを睨んでいて、遍くは遍くのことを考え続けていて、しかし結局、誰かの悩みや誰かの憂い、聞こえてくるのはそんなものばかり。吐息混じりの囁きのひとつに怯えて生きるというのだ。
観念ひとつ。赤い高速の陸橋。湾岸線の赤色灯は故郷への道である。その赤は、俺が小学生の頃に見た、女子生徒の机の隅に見た名札の色だったか、それとも、血便だったか。郷里は色を含んだ情景と紐付いているが、観念はそれとは別に独立して存在している。観念とは気分次第なのだ。今も社会の端々で何かと勝手に紐付く彼らのことを考える。赤色はただ激しいというだけに過ぎない。
過去は確かに存在したと言えるのなら、俺はこの懐旧を証拠と示すだろうか。印象が退行する。赤色灯を見る目は幼時と変わりない。違うのは、俺がその日々を客観視しているという点。それを懐かしむことができるという点。それとも、はっきり過去は存在しないと言うだろうか。今の俺が存在するのは、今の俺が存在したのは、もっぱら観念に拠ったためだと言えるだろうか。言い切れるほどに実直に生きていたか。
本当はやりたいことがあります。本当は自転車で東京まで行きてえのにできねえ。本当はスウェーデンに行きてえのにできねえ。富士山頂に到達してえのにできねえ。本当は、本当は、本当は。結局できねえのに社会はそれを許してくれる。優しいから。その負荷を自らに課し、不成立を仕方のないものと思わせてくれる。個人の努力によって成しうる全ては、社会によって成しうる全てのことだ。
本当は空想に生きていたいのだ。悪夢を見る日々も、それによって眠れぬ夜も、何かに紐づいてんじゃねえかと思うことは無意味だ。原初真実はその名を知らなかった。誰かが見つけたくなったから、わざわざその名を簒奪したに過ぎない。客体のなかに歪んだものを見るな。人は夢を見る権利を奪われている。幼児の思い出も、歴史も、系統的進化も、今に見えないものは存在しない。
女と分かり合えないことが分かっていながら、どっかの名前しか知らねえジジイがお前の遺伝子は残した方がええと言ったことをずっと覚えていて、知らずのうちにジレンマに苛まれ続けるのもごめんなのだ。それでひとつ、女の道を拓いてみてもいいかもなと考えた時に裏切りに遭うのだ。何のために見栄は存在する?分からないのだ。それなくしてじゃあ何と向き合えばいいのだ。何と向き合うことで社会と向き合ったと言えるのだ。こんな日々がずっと続きはしないことは分かる。しかし、もしかしたらずっと続くのかもしれないと、そう思うのは往日の俺なのだ。歴史は繰り返す。しかし恒常性はないことには言及しない。解を得て行うことのすべては遅い。ではなぜ我々の目には末日が映り続けている。
俺のこの恐怖は、一体何に対する備えなのだ?