モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

満員電車の善性

 満員電車の不快指数は底知れない。特に梅雨に入ったこの時期はつくづく思う。満員電車とは悪性の塊であり、人工の害なのだと。しかしながらそれは、結果的には人間の欲と愚鈍さの募る悪であったとしてもその成り立つ過程には少なからぬ善意が関与しているのかもしれない、という話。

 というのも、満員電車を防ぐ直接的な手段とは即ち人を集めないことである。故に最も効率的なのはドア前に突っ立って次なる乗車を断ることであるが、それは殆ど道義に反しているといえる。なぜなら人の自由と利益を侵害しているからだ。何人たりとも侵されてならない選択権を害する行為に他ならず、個人を軽んずる右行為はそれこそ悪と言って差し支えない。世に善悪の二元構造あれば既にここで決着が着く。右行為に出ない紳士の諸君らは自らが悪性に堕さぬ心掛けのために満員電車という善的な衆愚を形成するのだった。

 それは単に譲り合いと言い表すこともできるだろう。我々は電車のスペースを譲り合い、下限の利益を譲り合い、上限の不快感を譲り合う。一連は慈しみを持って行われ、今日も衆愚は箱に群れる。我々は善性をもって理性を鍛え不快感を黙殺しながら、きっと微小な利益にただ恍惚としているに違いない。