モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

昔はもっとはっきり生きていたよな

 経験を積むことで散逸するのは記憶だけではない。好みもまた多く重ねられた結果飽和する。昔はもっとはっきりとした好みがあった。好みは経験の中でもっとも選好性の高い意思が選ばれる。例えば、イカの天ぷらが食べたいだとか──浅い経験であればより限定的になる。例えば、大葉の天ぷらが食べたいだとか──それは殆ど直近の感動を再起させるトリガーであり衝撃に従った選好は生物的にもっとも正しい好みといえる。

 そしていくつかの天ぷらを食べるうちに、食べたいものが天ぷらとなった。その時点ですでに好みは崩壊に差し掛かっていたのだ。特定性はなくなり一個にして確固とした確信さえ築き難い。そしてある日、私は天ぷらに付属した──丼、蕎麦──を好むようになり、かつての大葉、イカは笊の隅に小さく居座るだけとなった。

 今の私は何が重要なのか分からない。蕎麦か、塩か、天ぷらなのか。

 昔はもっとはっきり生きていたよな。