モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

Twitterやってねーとアナル=アナルが壊れちまう

 アナルの学名がアナル=アナルだったらいいのに、そう思ってWikipediaに行ったらゴリラがゴリラ=ゴリラだった。

 なぜそう思ったか?私がトートロジーをこよなく愛するためである。愛とは愛着であり、例えば、私が発言に深みを持たせようと、二言でものを語る時に、次いの句が思い浮かばなかったとき、私はトートロジーを用いて前句を反復する。──アナルってのはね、ケツの穴ということでもあり、また、ケツの穴ということでもある

 そういうことがままあるため、私はトートロジーを愛さでいられなくなったのだ。往々にして、思考は敗北を喫する。──往々にして、私の題する悉くの事物は、私の感性に如くほどの内容を秘めてはいないのか?──単にクソほど造詣がも足りてない。──“用を足す”というのなら、“クソを足す”と言ってもいいだろう?

 Twitterをしなくなったというのは、あまり日常的なツイートをしなくなったという意味である。私のTwitterは既に、喜劇と悲劇を繰り、合間合間にヨルシカの歌詞をうわ言のように差し挟む場でしかなくなった。それは、客観的に見れば動静に満ちた有意義な日常に見えるかもしれない。ただそれ以外はどうなる?私のドラマを創るときにカットされた日常とは?喜劇と悲劇に至らないというだけで、排斥される些末な感情は報われるのか?ドラマだけが私の実存ではない。寧ろパッチワークに付された生地の方が遥かに広範であり、私を私たらしめる機微を多く含むものだ。私を見てよ!!!!本当の私を!!!!!

 しかしながらTwitterの濃度は上がったと思う。一般的な用法は他所にして、Twitterに望まれる姿とは斯様に、人間味のない喜劇か悲劇かの公演であり、幕間にヨルシカの歌詞が流れるものだ。