モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

ド月曜日

睡眠、リピなしです。そう思いながらもう一度目を閉じる日、週の始まり、ロットが回転する。

今日は何もかも嫌だった。別に仕事に辟易してるわけでも、それ以外にうんざりしている訳でもないし、休日の過ごし方に不満があったかというとそうでもなく、休暇が足りないわけでもない。体内で無理やり整合性の無い感情を成立させ、無理やりそれと向き合う自己矛盾を組もうとしており、その徒労を憂いているというような、全般的で意味の無い感情を形成し、それを人間の憂いとして判ずるというような、つまり客観的に無為な思考を形成している。

それが五分、挙上で起こり、ため息のひとつで掻き消え、また朝を迎えるということだ。

労働に双方性はないという諺をつくづく思い知る。それは、あんまりな諦めであって、皆がそう言うので以上の価値基準などない。分かっているのさ。憂鬱さは自己以外の典拠など求む辺もないというのに。

営為なる、作為なる、意思なる、希望なるものを心中に抱き続けなければ自身の満足は得られない。だが妥協と言う方弁に惑わされ、性質を絆されるに至るを知る。人生とは、その書き出しに迷い続けた余年が思い返されるばかりだ。嗚呼人生なるはふへんなり。ああ、無常という。

徹頭徹尾疲弊していると思う。それに伴われるべき理由などもなく、そこには徹頭徹尾という言葉が浮遊してある。そう言いたいだけのやるせなさがある。またそれを唾棄しうる方便は持たざる。

ろくでもない現実を歌う歌がある。思い出すのはその生涯のこと。それから未来のこと。他人に精算を要し、終に自己は有り様のみを識る。卑怯、卑怯、卑怯。

本質的にたぞ対等であったことなどない。現実に対しても己か平等たる線を引いたことなどない。あくまで、自己ありきの世界である。世界観である。見つめ合うことなどなかった。

そんな折に愛しさを見つけるか。そんな折に疲弊した自己のみがあるか。

誰か

男の服ぜんぶ女の子が着た方が可愛いの魔法みたいだね。

この前服知らねー人間とアウトレットに行ってもろもろ説明して自分の服に対する価値観が深まった感じがしました。結局服が好きなわけじゃないような気がします。まあ単に服より自分が好きで自分を着飾る意味の服が好きで付加価値的な用い方しないんでブランドどうこうみたいな話は結局今のところどうでもいいんです。アウトレットに限らずアパレルでは服見て値段見て裏地触ってみて鏡見て着てみて買ってみてということをやるんですけどそのすべてのタイミングで常にこれ要らねーなとちょっとは思うんです。元々服着てなくても自分が好きだし最近筋トレやってるから尚更裸でも最高だし服着たら足し算的に尚更いいかって別にそんな訳もなくてなんかたまたま全部上手くいったから買ってるみたいな。値段が一万円以下は安い二万円まで普通五千円以下は無料だと思ってやってるけどその辺は服知らねー人間とは全く価値観が違って良かったです。正直一生二十万の服とか買わねーだろとか思ってます。でも二十万の鞄を買う時はあるし今でもこの桁がどんどん更新されていくのを感じます。

昔は好きだったものが今では大したことなくなっていて昔は大したことないものだったけど今は好きというものが多くあります。季節は移ろいゆきますがそれよりも大きく移ろいゆく気持ちのことはまだあまり知られていません。

へぇ、

ルクアの地下にあるフリースペースは、辺りの惣菜や料理や酒やら菓子やらを持ち込むことができる。要は宅飲みの最強版、眠りこけることに限ってはできない点除けば。

しかしながら未だに虚勢の張りどころを掴めないでいる。今までどんな境遇に立ち会ったか。今どんなことが楽しいか。前会った時からどんな変化があったか。3ヶ月後には何がしたい。友達の数は何人だ。今疲れてる?労働環境はどうだ?金は十分か?それはそれとして休日は何して過ごしてる?今日は忙しかったか?今刺激的か?ん?ええ、はあ。うん。

虚勢の大抵は嘘じゃない。下手くそしか嘘を張らない。虚構を作り上げるんじゃなくて表現でそれをやるというのが面白いところだな。人の心をくすぐるような修辞を与えてやることが、すなわち誰かしらの心を満たすことになるだろう。省みるに、彼らはたくさん虚勢を張るタイミングを与えてくれる。口を開けば素直に耳を傾ける。彼らは礼儀を知っている。

断っておくが、虚勢を張ることが悪いことだなんて露とも思っちゃいない。自分にとってくだらない経験も、言い方次第で他人を感化させうる可能性を秘められるのだから。甲斐甲斐しくやってろうというそれも、実は自己保身の一部なのさ。肝要なのは貴重な経験を伝えることではなく、自尊心を伝えることだ。ゆえに張りどころを定めなくてはならない。「わたし、わたしのことをこんなにも可愛がっていますよ」なんて言葉はチャーミングだが、テンションを間違えるとただの痛いやつだ。

別に今日のことなんか誰も覚えちゃいないのに、こんな都会の地下でも真面目に生きなきゃならんと思っているやつがいる。そいつのことが心の底から羨ましいと思っている。誰の前でも緊張を禁じ得ない人間も、どっかから借りてきたような気遣いをするものも、笑えないものも、一生座りの悪いものも、その全部がうんざりするほど美しいと思っている。今目の前にあるクワトロフォルマッジよりよっぽどこってりした善意だね。なんて笑ってやっても明日のやつらを生かすことは出来ないんだぜ?そんな綺麗な顔も明日になれば誰も覚えちゃいないのにさ!

俺たちがどれほど酩酊しようと、あいつらの方が夢を見てんじゃねえかって思う。人間の甲斐性などという無体に縋り、その姿なき果てを追い続けるような白昼夢を。

空っぽだねと思った。その角にある鮨屋で海鮮丼を食ったかつての俺たち。あれは思い出の出発点だった。そこから梅田という街が拡がって行った。その影が今でも椅子にこびり付いて見える。時は流れ、道は違えどそれは同じ様態であり続ける。いつまでも思い出に綴じられないそれを虚しく思ったかは知らないが、その空隙にひとつの虚勢を張った。

「むかしね。会おうと思えばいつでも会えますよ?」

その飾り偽りなき言葉が嘘であることを確かめるように。

大事件

今完全にパンツがグチョグチョです。調子に乗りました。俺の描く絵がエロ過ぎてチンチ-ンを弄りながら絵を描いていたら思わぬタイミングで射精してしまった。こんなのってアリなんすか?マジで勘弁してくれ。誤解です。チンチ-ンを弄りながら絵を描くと筆が乗るのは本当です。嘘じゃありません。そういう絵を描く時は、まずチンチ-ンのご機嫌を伺うことがいっちゃん大事なんすわ。チンチ-ンどないや!キャッキャッ!ピ------!!!!!は???????????そういうわけで俺は一年で70枚ほどの絵を描いてきたんですけど、今回初めてです。こういうことが起こったのは!!!!!!!!歳かもしれん。ヤバい。我慢が出来なかったというか、そもそも射精のためのオナニーとチンチ-ンを弄るだけの行為は猛烈な隔たりがあるはずで、経験上前者は必ず射精という結実を迎えるし、後者は地続き的な気を保ち続けるための方法で終わりはないんすよね。お分かりの通り絵を描く時は後者でモミモミし続けるだけなんで、我慢とか云々より前に俺は心のどっかで無意識に前者たる振る舞いにシフトチェンジしていたっていうことなんすけど、それって完全に暴走ですよね。これは明らかに失敗である。今後のためにどこが問題だったかを明確にしないと一生そのまんまだぞ。今俺の中で絵を描く行為と射精という結末の因果律が結ばれようとしているのをお前は黙って見過ごすのか?見過ごすことはできないねえ。もう絵を描きながらチンチ-ンをモミモミするのはやめようねえ。反省してます。ところで、これでどう見ても精子です本当にありがとうございましたというのがマジで有り得る話になったわけです。早く一人暮らしをせんととは思いますが、そうなったらなったで歯止めが効かんくなるような気がします。人間、恥と理性のどちらを捨てるかは古来よりの難題でした。今スウェットのどこかにある卵子を求めて組織を彷徨う彼らのような思弁性があればいいのにね。どうせ臭いでバレんだよな。

顔がいい女の、形のいいマンコ

 その昔、絶望は自らの生存に向けられていた。今や、それは才能であったり、個性であったりする。腑抜けた時代だ。なぜ我々は死を昇華せねばならなかったのか。自身の理想を高く掲げたいがために、命の価値を繰り上げる毎に、死もまた自ずと繰り上がる。「好きなことしてなきゃ死んでんのと同じ……」「生きててもしょうがないだろ……」そう思えることの尊さを、既に忘れてしまっていた。

 他人の人生観に口を挟むつもりはない。ただ一般に死を恐れ、生に縋る人間の、何を否定しようとも思わない。漫然と、それがあるだけの社会は豊かであると思っている。尊さだとか豊かさだとか、幸福だとか、そういう舌触りのいい言葉も、人生を語るうえでは欠かせないことだと思うし、絶望もまた深みをもたらす材料に他ならない。時に通説を曲げ、斜に構えた死生観を語るのも悪くないだろう。それも含め多様性だと言うのにも、一切の疑義をもたず接することが出来る。ただ一点、ことわるべきことがあるとするなら、それは、命は死を待つものであるという事実と、それにはなんの意味もないという事実を、いつか知らねばならないということだ。

 自殺について人は考える。大抵は罪であるが、詩と哲学において、そう悪くは喩えられていない。無意識な生誕だからこそ、無意識に死するべきか、或いは自分の意思をもって、その生涯にけりを付けるべきか。人間として、生命として、抜本的にどちらが正しい死に方、或いは、生き方なのかは、ひととせの後でさえ、誰にも分からないことなのだ。

 ただ多くは、そんなことを考える暇もなく、自らに与えられた時間を全うする。そして多くは、生命の賛歌に包まれながら死んでいる。言うように、そこに意思がなかったかというと、決してそんなことはない。死ぬ瞬間だけそのことを考えればいいと言うのは、立派な倫理じゃなかろうか。その囁きこそ、彼が黄道を一周するうちにたどり着いた結論であるというのは、彼の死相を見るよりも明らかであろう。そんなあなたに、「あなたは生命の矛盾に気づけたか?」などと問いかけてみたいものだ。

生と死は直感的にアントニムなのに、よくよく性質を見ればシノニムであることに気づく。解さずとも、そうしたアンビバレントには早いうちに気づく。不都合や不合理はあまねくしてある。

なんというか、余人は既に解を得ているのだろうか?街をゆく人間は、戸棚を整理している指は、指示書を見ている目は。彼らの動静が描いた軌跡の上に、そういう死生観が滑っているのを見たことがない。

最近は生きることにぼんやりとしてきたので、生きるのも死ぬのもそう変わりないような気がする。これは重要事ではなくなったという感覚に近しい。また、普遍的な解に辿り着いた状態であると言ってもいい。或いは諦めとさえ言えるのであれば、その絶後を俺に教えてくれ。

俺は今、死んでもいないし生きてもいない。というかこの世界のどこにも、生や死などといったものは存在しない。それは、遠い海の戦争や、井戸底の明滅や、昨晩の八丁目や、図書館横の産婦人科にもない。しかし、ずっとあるような気がする。ずっとあれかしと願っている。そういう知覚以前の感覚において得られる記憶。言語の生まれる以前の野生部。非存在そのもの。

もう死にたいとは思わない。だが、死そのものはあって欲しいと思う。そうでなくては説明できない現象や、実在する感情を仮定するために、それがあって欲しいと思う。そうした営みの発露こそが生きるということであり、死んだということなのだと思う。

この考えが、十余年携えた思考の発展なのか退行なのかは、もはや今の俺の知るところではないと思う。

しかし、存在しないがあって欲しいと思うものってあれだな。

顔がいい女の、形のいいマンコ

 

 

s

「ねえ、オモコロチャンネルの人たちは、普段面白くない人が頑張って面白くさせようとしてるのか、それとも、元々面白い人たちなのか。どっちだと思う?」

「…」

「オモコロチャンネルの視聴者は…」

「もうやめてくれ」

これは何かの罰なのか。彼女の丸い瞳に見つめられながら、そこに収まりきらないほどの湿りが背中を塗る。一時間も前からずっと何かを言いかけていて、ただ一言も発さないまま、却って喉の奥は乾き始めている。そんな俺を彼女は待っていて、ずっと待っていて、飽かずして待ち続け、良い吐瀉を促すほどに優しくも、その前途は緊張に閉ざされており、果たして何を吐くのか、言葉が汚物か、血か、それとも罵詈という罵詈なのか、彼女の期待するところはそこか。ただ何かを待たれ続けることの苦しみを味わうだけの時が過ぎ、しかしながら、その沈黙の隔たりはさらなる苦しみを生むのだろうという不安が、俺の感情を表す言葉を端から端まで駆逐しつつあった。彼女は不確かに笑っていた。

人生を加速させる。時を表す言葉に加速という表現を足すことは破綻しているが、人生とはすなわち時を表す言葉ではない。少なくともこの場合は、生活にかかる全てのことを人生と呼んでいる。

例えばウォシュレットを使うだけで人生は加速する。ノーアイロンシャツを買うだけで人生は加速する。湯船に浸かれば人生は減速し、病気になれば遅滞する。この感覚さえ伝われば良い、独り善がりの表現である。

また、理由のない行動の有意性について問われることがある。理由と成果の紐付けに執心することもある。存在には意味があり、早いこともまたそれだけで意味がある。

「あなたは筋トレをしているけれど、その目的は何かしら」

「…答えにくいのなら選ばせてあげる」

「筋トレを、するの?しないの?」

「私、思うのだけれど、あなたの思っているとおり単純にかっこよくなりたいだけなら、もっと早い方法があると思うのよね。」

もう一つ、人生を加速させる方法がある。それも急速に。

「一度オナ禁を試みたことがあるわね。その方が、栄養が筋肉に転化されるから。でも失敗した。なんで失敗したの?」

オナ禁をする理由があったのなら、それを辞める理由もあったのかしら。その理由を破るくらい強烈な理由付けが、あなたの輪郭を撫でるより確かな感覚として、毛羽立った肝を鷲掴みにされる最後の瞬間まであったのかしら。」

「わたし、知っているのよ。あなたのことは何でも。」

直近で実現可能な嘘をつく。現実が自ら発した妄想に追い付こうとする速度は、全ての事象に追いすがる意思の中で最速である。

「あなたは理由に寿命があることを知っている。すべてのことは動悸に過ぎないということも知っている。それは内発する衝動に留まらず、時針のあゆみでさえね。」

「その傾向が、あなたの生命が持つ歪みから来ていること。見ているものや感じるものがすべての世界で、あなたは自分の姿を留めようとはしない。それは他者へ向ける視線も同じこと。現にあなたの言う客観性や巨視、また慰めは、もはや一般論でしかない。」

「それは、あなたの振る舞いに拠らない、もっとも美しい詭弁のつもりで言っている。むしろ、あなたが他者に求める共感性は、まさしく忌憚のそれなの。あなたはひとに分かってもらおうとはしていないでしょう?」

「あなたの心象を説明するのに、あなたはただ心を尽くせばいい。誰の説得も必要とせず、あなたはあなたの納得を高額で買い取るのよ。」

「わたしにはなんでも分かる。あなたのことならなんでも。」

「…」

倦んだ瞳の底で眠っている感情が俺には分からなかった。知っている人間の前で無知を晒す、これが萎びた赤子の頃に味わった原初の恥辱であることを思い出した。

「存在理由」

今の今まで私が吐いた言葉は一つだった。私はそこから広がる無限の可能性に打ちのめされることもなく、ただ黙して思い付くだけのすべてを肯定し、ありとあらゆる意見を呑む。そうして、私は私の納得を買う。たとえ暴利を積まれようとも私はそれを買うための手段を用意するだろう。

「俺は人を殺すために筋トレしてる」

私は今嘘をついた。まだ嘘のままだ。だがこれが嘘である以上、この人生の助走は十分ということだ。やがてその目的が差し迫った時、俺の人生は最高速度に達するのだ。

そして言い放つのだ。空でもない俺の心に向かって、俺の心に住まう全能の意思に向かって言う。これが決別となればいい。これで破綻してしまえばいい。自分の納得を買うために講じた諭旨など、あくまで正極の他者を装うピエロなど、俺の筋肉の前ではいらないのだ!

「ここにあるのは!」

「お前を殺す筋肉だけじゃ!!!!!!」

 

・・・

そうして彼女は言った。今度は確かに笑った。不敵な笑みが蕩けた双眸に渡るかのごとくして、彼女は息巻いた。

「存在理由」

瞳の奥は夜より暗く、ほのかに温かいのだった。

10-11

今日は曇りだった。8時のアラームを頭に響かせながらそう思った。身体が重いのも、それが原因だと思った。

最近、妙に起きれない。周りが一挙に冷たくなったからか。気温だけじゃなく、隣人も、その関係も、その態度でさえも。しかるにまだ凍えるほどでもない身体は、一度起きてしまえばすぐに体温を取り戻す。部屋の扉を開けると、同居人が僅かな温もりを残していた。

家を出るまでの間にできることはない。そして一度出てしまえばもう何も関係ない。外は晴れていた。だが今日は曇りだった。なぜなら起きた瞬間に、そうと決めたからだ。

一日はそれとなく過ぎていく。良くて平凡、悪くて退屈。気の持ちようでどうとでもなることだ。大義があるのかないのか、使命に追われているのか、そうでないのか、結局、所在の知れぬ意味を追うことにはなる。どんな仕事でも、一個人に許された納得の量は限られている。

「居ることに意味があるんだよ」と、前の店長は言った。それに反抗して辞めた口になっているが、心の傍では首肯していた。「居ることに意味がある」「居なくていいやつなんていない」他愛のない会話でも、黙って口をとんがらせているよりかはずっと面白い。沈黙を評価しているやつは、沈黙しか評価するものがないため、仕方なくそうしているに過ぎない。そして、沈黙は存在するが、沈黙それ自体は全くの空であることに気付いていないふりをするのだ。

ないものを評価するのは難しい。ないものを評価するには、ないものを「ある」と仮定したうえで、その対極の「ない」場合を想定する必要がある。しかし、それは本来「ない」もののない状態が「ある」と仮定されており、「ない」ものそれ自体を評価するものでは決してないのだ。

だからこそ、居ることに意味があったし、辞職は無意味な選択であった。少なくとも、ない未来について話すことは躊躇われた。

そこで無意味な選択をした経験から、今もなお無意味な人生が続いているような気がする。何かにつけて集中が続かないのも、熱意については表現力ばかり身に付いてしまうのも、疲れているのも、何をやってもそこまで愉快でないのも、地続きの価値の絶滅のために起こっているのではないかとも思った。

しかし、それは大事ではなかった。居ることに意味があるという発言に納得した以上、自分は今の実在性に納得するべきで、それが価値の最低限であり、最上限でもあった。自分はいる。平凡も退屈も存在する。それ以上に意味など求めようもない。そういう言い方もできる。

 

美容師が難波でオーストラリア人にナンパされた話をしている。珍しく親切心の湧いた美容師は、困った外国人を連れて難波を案内したそうだ。南海からJRへ、JRから千日前へ、グリコの看板へ。グリ下では変わらず風が吹いている。しかし、それに言及することは、ここでは意味を含みすぎていたのかもしれない。

夜風と恋愛、そして気まぐれな善意は、それぞれ全く関係のないところにある。国籍不明のオーストラリア人は道に迷っていたし、難波に吹いた風は微風に過ぎなかった。だがもしそうなら、その気まぐれな善意の正体を知るものは、そこになかったということになる。

曰く、恋愛を諦めている。美容師としてそう言われるのは癪だったかも知れない。しかし、その危うさを得てして越えないことを諦めと言わない彼女は、少し強がっているようにも見える。気まぐれも一種の危うさだろう。それを肯定できないのなら、人は何を意思と呼ぶのだろう?髪を洗われながら、鎖された視界の閉じた瞼の奥で思っていた。仮に同じことを俺が言ったとて、結果は変わらないのだ。意思があればそれを変えられる。そして俺は、俺の中に発念する危うさが排水溝に流れていくのを聞いていて、これが諦めなのか何なのか。運命に意思を委ねることを是としない意思のことについて、終わらぬ問答を続けていた。風が、鼻のかしらを掠めていたのだ。

 

その夜、退屈な夜。俺は久しぶりにキショ工作をしていた。

キショ工作は楽しかった。キショいと言って自分を宥める。その手垢のついたやり方に懐かしさを覚えていた。
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